何でもできるゲーム

私はファミコン世代ということもあり、昔からゲームが大好きでした。

コンピューターゲームに限らず、古くからある遊戯としてのゲームを好きな方も多いかと思います。

しかしゲームには必ず“ルール”が存在します。
もしもルールの存在しないゲームがあったならば、どんなゲームになるのでしょうか。

古今東西

娯楽としても勝負事としても、時代に即してさまざまなゲームが登場してきました。
ゲームが人間にとっての生きる証といっても大げさすぎることはないでしょう。

勝敗を決するゲームもあれば、漠然と楽しむものまで、形は色々あります。
最近ではマシンの性能も向上し、多種多様なゲームで楽しんでいる方が増えました。

ロールプレイングゲーム(RPG)ではキャラの育成に自由度があって、好みの戦闘スタイルに育てられるゲームが人気のようです。
シューティングゲーム(FPSなど)では武器の選択肢が広く、カスタマイズの楽しみも醍醐味と聞きます。

特に近年のゲームにおいては、「自由度の高さ」や「選択肢の広さ」が求められる傾向にあると思います。

何でも思うがまま

では自由度とは何かを考えました。

自分の思ったままに全てが叶えられ、最強のキャラも最弱のキャラも、どんな見た目でも自由に作れるゲームです。

ゲーム内で何をして過ごすのも自由です。
釣りがしたければ釣りの設定をするだけでOK。
農耕がしたければ畑と収穫の設定をするだけでOK。

敵もボスも、キャラの成長速度も、何から何まで自分の思うがままです。
地形も背景も、自分好みの世界へと設定しましょう。


・・・すでにゲームですらありません。
ここまでくるとゲームであるという認識すらできない可能性があるのではないでしょうか。


つまりゲームにはルールがあり、制限があり、束縛があり、道筋が示されなければゲームではないと考えられるのです。

 

道を示す重要性

広告や宣伝でも、プログラム制作でも、情報処理でも、何から何までそうかもしれません。

そこに需要と供給があるから。
そこに目的があるから何かを作り出すことができるのではないでしょうか。

人間の脳は理性を伴っていますから、本能だけで生きている訳ではありません。
しかし目的や目安などの「枠」がなければ、考えることができないと思うのです。

「社会という枠」の中で生きる私たちには、その枠の中で考えられるルールが必要です。

目的をしっかりと認識して、しっかりと道を示さなければ、そのモノが広告であることすら認識できない訳です。


もし人間が「枠」のない世界で考えられるとするならば、それは何と表現すればよいのでしょうね。

え、それはもはや「人間」ですらない?
ルールという枠がないということは、そういうことなのかもしれませんね。

Fin.

WEBコンテンツ作成、各種執筆、薬機法チェックなどのお問い合わせはこちらまで。

クラウドソーシング経由の場合には下記の画像がリンクになっています。