芋粥

芥川龍之介の有名な小説のひとつに、「芋粥」があります。

あれだけ恋焦がれ、夢にまでみた芋粥。
実際に願いが叶ってみると、叶わなかった方が幸せだったのか。

といったストーリーでした。

私たちが捉えるモノの価値について深く考えさせられる作品だと思います。

飽食の時代

芋粥のストーリーでは年代も大きくかかわってきます。
現代でいうならば、貧しいながらもお金を貯めて高級焼肉店に行くイメージでしょうか。

ところがその高級な焼肉も、普段から肉を食べているか、肉をほとんど食べていないかによって感想は異なると思います。
むしろ肉を食べた経験がない人が高級焼肉を望んだとしても、比較する対象がありませんのでやはり感想は異なってくるでしょう。

当時は貧しい家庭も多く、望んだ食事を摂ることが難しい時代でした。
現代においては流通網や食材加工技術も進歩して、ある程度の比較対象であれば口に入れることが容易といえます。

お金の余裕

子どものころは誰しも自由に使えるお金が少なく、お小遣いの中からちびちびと計算をして使っていくことが多かったかと思います。
成長するにつれて使える額も大きくなっていき、社会人ともなればその額は跳ね上がることでしょう。

小学生のころには身を切る思いで買った缶ジュース、大切に1滴残さず飲み干しました。
ところが大人の今では、口に合わなければ捨てることすらあります。

確かに動かせる金額が変わったのですから、そうした行動に出ることは仕方がないのかもしれません。
喉を潤す以上に、美味しさによるポジティブな感情を願うこともあるでしょう。

しかし私はこうも考えます。
扱える金が増えたからといって、物を粗末にすることが許されるのだろうかと。
物を買うことと、物を粗末にすることは違うと思うのです。

もしも金を得ることで、誰かに対する感謝の念が薄れてしまうのであれば、これは考えものです。

モノの価値

幼いころの良い思い出や憧れを、大人になってから叶えたいという気持ちは誰にでもあります。
大人であれば購買できる額も上がりますので、幼いころの憧れをくすぐることは大きな売り上げに繋がることもあるでしょう。

芋粥とは異なりますが、せっかくの魅力的な製品を購入してもらったとして、
「大したことない」
「期待外れ」
「憧れに幻想を抱いていた」
という感情が生まれてしまうことは、本当に寂しい限りです。

私はどうせならばポジティブな感情を持っていただき、さらに昔を懐かしんだ思い出話に花が咲くことを期待してしまうのです。

まだ子供だった時分に、ありがたい気持ちで楽しんだモノ、味わったモノ。
あらゆるモノに対する感謝の念の再認識は素晴らしいと思います。

そうした情報の在り方について、今日も私は思いを巡らせるのです。

Fin.

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