同じ情報なのに

全く同じ情報を同じ人が手にしたにも関わらず、その情報の価値が高くなることもあれば無価値に等しくなってしまうことがあります。

なぜこうしたことが起こるのかを私なりに考えてみました。

またそこに隠れた何かが、未来を照らす可能性がないかと思い筆をとった次第です。

ファミコン世代

私が小学生のころの思い出話です。

熱狂的なゲーム少年だった私は、ファイナルクエスト3(仮名)というゲームをプレイしたいと思い、発売日を心待ちにしていました。
ところが社会現象となるまでの人気タイトルで、どの店舗を巡っても予約することができません。

先着順に購入できるという情報を得た私は、発売日の前日から銀座のデパートに徹夜で並びこみをします。

遂に手にしたファイナルクエスト3。
それは寝るも惜しいほどに楽しく、とことんまで遊び尽くしました。

同窓会ともなれば数十年経った今でも、そんなゲームの話で盛り上がるものです。

インターネット世代

現代っ子の中には、違法にダウンロードしたROMをエミュレータで遊ぶ人もいるでしょう。
PCでササっと数回クリックし、簡単に入手できるファイナルクエスト3です。

時代や背景は度外視にしましょう。

私が徹夜して入手したソフトと、安易な気持ちで手軽に入手したソフト。
まったく同じゲームソフトであるファイナルクエスト3。

さて、どちらのプレイが楽しいでしょうか。
どちらのプレイに熱狂できるでしょうか。
そして記憶や印象に強く残るでしょうか。

ともすればストレスとも考えられる“徹夜の労力”が伴ったファイナルクエスト3の方が楽しめるとは思いませんか?

情報において

以前にも述べましたが、労せず得た情報はたとえ高価値なモノであっても、なかなか価値を見出せなくなる傾向にあると思います。
これだけ情報が氾濫し、簡単に情報を得ることができる時代だからこそ、何かヒントが見えるような気がします。

一見するとムダに見えることや、ストレスに感じられること。
そうしたムダを省くことが全肯定される世の中かもしれません。

しかしそのムダやストレスを経た後に訪れる、一種のカタルシス的な何かがあるように思えるのです。
抑圧から解放され、快感を伴った情報には高い価値を見出せるのではないでしょうか。

もちろんバランスは大切ですが、小学生のころの寄り道や回り道の楽しさ。
そうした記憶を大切にし、これからも情報を扱っていきたいものです。

Fin.

WEBコンテンツ作成、各種執筆、薬機法チェックなどのお問い合わせはこちらまで。

クラウドソーシング経由の場合には下記の画像がリンクになっています。